INTERVIEW Contents

夢を叶えるために必要なこと夢を叶えるために必要なこと

川上:左近さんがF1パイロットを目指したのはいつ頃ですか。

左近:6歳の時、母に連れられて鈴鹿サーキットへ行き、F1のレースを見たのがきっかけでした。
もともと母はF1が大好きだったのですが、本当は僕をレースに連れて行きたくなかったんです。
絶対、僕がF1パイロットに憧れるだろうと思ったから。
でもたまたま父が学会で不在で、僕を一人で家に置いておくことができなかったため、僕を連れてF1の観戦に行ったところ、案の定、僕はF1の魅力に引き込まれてしまったんです。

川上:日本グランプリのレースですか?

左近:そうです。
当時はセナやプロストなどが活躍していて、F1の黄金時代と呼ばれた時期。
とにかく、迫力がものすごかったんです。
観客の盛り上がりもすごいし、爆音も強烈で、これまで体験したことのない世界が広がっていた。
絶対、「F1パイロットになる!」と決めました。

川上:でも当時、左近さんのお父さんは医師として医療法人と社会福祉法人を設立されていたんですよね。

左近:愛知県豊橋市で医師として1962年に山本病院を開業した父は、1975年に社会福祉法人を設立。
そして、1978年には高齢者、身体障がい者、知的障がい者の方たちの自立支援施設を同じ敷地の中に建てる「福祉村」を作り、その中心に1982年に認知症専門の福祉村病院を立ち上げました。
ちょうど僕の生まれた年です。

川上:当然、ご両親には左近さんにあとを継いで欲しいという思いがあったでしょうね。

左近:父に「将来、医者になれ」と言われたこともありました。
でも、いまでもはっきり覚えているのですが、僕が8歳だった時、「福祉村」の敷地に7階建の老人保健施設が完成したんです。
落成式はとても天気が良い日で、僕は父や母に連れられて式に参加していたのですが、青空を背景に真っ白な巨頭がそびえ立つ様子を下から見上げた時、僕には未来の映像がワッと全部見えたんです。

川上:映像というと?

左近:自分が医者になって、この病院を継ぐという未来です。
その瞬間、僕はこのままじゃ父を超えられないだろうと思いました。
そして、そんな未来はいやだと思ったんです。
僕は絶対F1パイロットになると、改めて決意しました。

川上:「父を超える」というのが、大前提にあったんですね。

左近:父のこと偉大だと思ったんでしょうね。でも、当時の僕にはどうやったらF1パイロットになれるかわからなかった。
そんななか、確か9歳か10歳の頃だったと思います。
たまたま読んでいたレーシング雑誌に、おもしろい記事が載っていました。
当時、活躍していた一流のF1パイロットたちが、どうやってキャリアをスタートさせたのかという内容でした。
ほとんどのドライバーがレーシングカートからキャリアをスタートしていたのですが、興味深いことに、12歳以降でカートレースを始めた人でF1パイロットまでたどり着けた人は、0.1%にも満たなかったんです。
僕も絶対、12歳までにカートレースを始めなければいけないと焦りました。

川上:それで、カートレースを始めたのですか?

左近:しかし、両親は僕がF1パイロットになることにずっと反対していました。
あとを継いで欲しいという思いもあったでしょうし、危険だからということもあったのでしょう。
もうすぐ12歳になるというギリギリのとき、鈴鹿サーキットでレーシングスクールが開校されることを知りました。
入学には親の承諾書が必要で、入学金は100万円。
当然、親に頼まなければなりません。
そこである晩、夕食を終えたあと、例の記事が載っているレーシング雑誌とスクールの申込書を持って、両親に「12歳になるまでにカートレースを始めたい。鈴鹿サーキットのスクールに入学したい」ということをお願いしたんです。
もちろん、答えはノーでした。
しかし、これが自分にとってラストチャンスだと思っていましたから、何度も何度も土下座をし続けました。
最終的には母が折れて、「学校の成績を落とさない」ということを条件に、スクールに入校させてもらえたんです。

川上:すごい根性ですね! 念願叶ってスクールに入校して、初めてカートに乗った時はいかがでしたか。

左近:「人生でもっとも望んでいたのはこれだ」って、松田聖子さんじゃないけれど、ビビビときました(笑)
だけど、現実は甘くなかった。
ほかの子どもたちは、5歳とか6歳とかもっと早くから始めているんです。
同い年でもキャリアがまったく違うし、参加するレースも違う。
でもこのギャップを絶対に埋めてやろうと思い、ひたすら努力しました。
いま振り返っても自分でおもしろいと思うのですが、カートに乗り初めて1ヵ月くらいしたとき、僕は「22歳でF1パイロットになろう」と決めたんです。
22歳でF1パイロットになるために、いつF3000に参戦して、いつカートからフォーミュラへ移行して、って、細かく計画を立てました。
僕がF1パイロットになったのは24歳のときで、結果的に2年の誤差はありましたが、ほぼその予定通りに目標の頂点へたどり着くことができたんです。

川上:僕らの世代は、「ガムシャラに頑張ることに価値がある」って考えがちというか、努力を積み重ねればその先に何かがあるって、つい考えてしまうと思うんです。
でも実際には、「努力を積み重ねたけれど、その先には何もなかった」っていうことも少なくない。
それは最初に目標や理念を掲げていないからで、だからこそ、例えば経営学の分野では、経営理念を明確に定めて、それを実現するために戦略を立て、着実に実行していくことが必要になる。
それを左近さんは幼い時から実践していたということですね。
夏休みの宿題すらできない子どもも、当時、周りには多かったでしょう(笑)

左近:僕も夏休みの宿題は8月31日に急いで片付けるタイプでした(笑)
もちろん、カートを始めて辛いこともありました。
でも僕が14歳だった時、カートの先輩にもらった年賀状に、こんな言葉が書かれていたんです。
「人間は、自己実現不可能な夢は思い描かない」
この言葉には、とても衝撃を受けました。
確かにそうだ。人間は「月に行こう」と思ったから、月に行けた。
だから自分もF1パイロットに絶対なれる、そう思ったんです。

川上:その言葉が、それ以後も左近さんの励みになり続けるんですね。

左近:「絶対F1パイロットになれる」っていうのは、もしかしたら、ただの勘違いや思い込みかもしれない。
でも人間、ときには勘違いし続けることも必要じゃないかって思うんです。
世界でチャンピオンになっている人たちは、元々のスキルや能力も高いけれど、それよりも「自分はチャンピオンになる」「絶対に勝てる」という、自分を信じ抜く能力がものすごく強かったと思うんですよ。
残念ながら僕はF1で頂点に立つことはできなかったけれど、あの頃、僕に足りなかったのはそれかもしれないっていま、振り返って思います。

川上:スティーブ・ジョブズやイーロン・マスクもそうですよね。
周りは彼らをホラ吹きだと思うかもしれない、でも最終的には、彼らはちゃんと実現している。
彼らには迷いなく自分を信じ抜く力があり、その力が彼らの努力を支えるのでしょうね。

山本 左近
幼少期に見たF1日本GPでのセナの走りに心を奪われ、将来F1 パイロットになると誓う。両親に土下座して説得し1994年よりカートからレーシングキャリアをスタートさせる。2002年より単身渡欧。ドイツ、イギリス、スペインに拠点を構え、約10年間、世界中を転戦。2006年、当時日本人最年少 F1デビュー。2012年に日本に拠点を移し、医療法人/社会福祉法人の統括本部長として医療と福祉の向上に邁進する。2017年には未来ヴィジョン「NEXT55 超幸齢社会をデザインする。」を掲げた。また学校法人さわらび学園を取得し専門学校教育事業を通じて、次世代のグローバル福祉リーダーの育成に取り組む。
日本語、英語、スペイン語を話すマルチリンガル。

後半へ